【私たちは何ものなのか?】


終焉しない「政治」にこだわる

 「政治グループ」と聞いて、あなたはどんなイメージを思い浮かべますか?私たちは自らを政治グループと位置付けています。そのことに込めた私たちのこだわりを説明することはそう簡単なことではありません。

 残念ながら、現在の日本列島社会において「政治」は、忌み嫌う対象としてのマイナスイメージを色濃く持っています。利害や打算に基づく「汚い」もの。あるいは、うっかり近づくと「危ない」もの。むしろ、非政治的であることが良いこと、無難なことであるかのように思われてはいないでしょうか。

 しかし、社会が存在する限り、社会で生きる限り、「政治」はなくなることはありません。社会の様々な問題を調整したり、解決したりするための決定やルールを作ること。それは、個人が望む望まないに関わらず、決して避けられないことでしょう。「政治」の終焉はありえないことです。

「格差社会」に投げ出される若者

 そうだとすれば、私たちは「政治」にどう向き合うべきでしょうか。「政治」を私たち自身が遠ざけることに比例して、私たちは「政治」の単なる“対象”に落とし込められることになります。とりわけ若者、青年について言えば、様々なレッテルを一方的に貼り付けられ、「保護」あるいは管理、統制の対象にされる風潮が強まっています。

 ずさんな経済・社会政策の責任を棚に上げ、すべてを個人の「自己責任」に帰したうえで、「ニートはけしからん」、「フリーターを何とかしろ」と叫び、果ては「サマワの自衛隊で訓練させればいい」と放言する政治家さえ現れています。新自由主義に基づく「構造改革」という名の市場至上主義が弱肉強食の格差社会を招き寄せ、膨大な数の若者を平均年収100万円ほどの「フリーター」という低賃金・無権利の不安定労働に留め置いているのです。
 国家が対策と称して持ち出すのは、「勝ち組」「負け組」の分断と「自己責任」論の押しつけ以上のものではありません。

国家=公というナショナリズムの誘惑

 その一方で、公共性のない「ジコチュー」な若者を教化するとして、「国民の誇り」を叫び公然とねつ造した歴史を若者に注入しようとする動きがますます強まっています。それは、「つくる会」教科書の採択拡大や小泉首相による靖国参拝の強行、近隣諸国を公然と敵視し、差別・排外主義を煽る著作群の登場などの形で表れ、インターネットでの右派言論の浸透に見られるように一定の若者に少なからぬ影響を及ぼしています。
 自らの抱える不安や困難の原因や背景をきちんと見すえることを妨げ、安易に国家や強いリーダーへの同一化を迫るナショナリズムやポピュリズムは、一時的に幻想的「癒し」を与えるものでしかありません。その強まりは、異質な他者・マイノリティへの排除や暴力を公然化しています。その典型的表れが、中身のない「改革」を連呼し、「秩序破壊者」を装った小泉首相に対する一定の若者の「支持」だったと言えるでしょう。

「グローバリズムと道徳」による教育改革の罠

 そして、「教育改革」の名のもとに現在進められているのは、グローバリゼーション(市場の世界化)を背景に、「自己責任」と称して「負け組」となることへの恐怖心を煽り、「知識・資格・スキル」の獲得を個人に強いながら能力主義競争を強めることです。そして、競争についていけない者を管理する手段として「心のノート」に見られるような愛国心やナショナリズムに基づく「癒し」が動員されつつあるのです。国家や企業にとって必要なエリートを養成しながら、国家の公共性に子ども全体を絡めとっていく。いわば能力主義と「倫理・道徳」がセットの形で若者管理の手段になりつつあるのではないでしょうか。

「政治」を取り戻し「再定義」するために

 全てを市場のものさしで測り、弱肉強食により格差を拡大するグローバリズムや、個人を国家に従属させようとするナショナリズムによっては、私たちの社会が抱える矛盾や困難を解決することはできません。

 そうではなく、私たちは市民が国境を超えて横につながることで「市民的公共性」を形づくることの先にしか希望はないと考えます。現実に、ボランティア・市民活動の広がりや地域の住民投票などによる自治・自己決定の動きの拡大、地雷禁止条約や国際刑事裁判所(ICC)条約などNGOのイニシアチブによる国際法づくりなどに見られるように、国家が独占してきた「公共性」に風穴を開け、市民社会が公共性を形づくる流れが姿を現しています。

 私たちはこうした動きを一層加速し、豊かなものにするために努力を続けます。とりわけ今必要なのは、開発協力やエコロジー、人権、福祉といった領域におけるNGO、ボランティアの活躍と同様に、今まで敬遠されてきた「政治」の領域に青年自身が大胆かつ着実に参加し行動していくことではないでしょうか。それは、閉じられた「劇場政治」への擬似参加ではもちろんありません。その際、手垢にまみれた既成の「政治」概念にとらわれる必要もないでしょう。

ラディカルかつトータルな社会変革へ

 では「政治」固有の領域とは何でしょうか。例えば、それぞれ独自のテーマで展開される市民運動を相互に関連づけ、その連携の方途を考えたり、社会をトータル(総体的)に変革していく方向性、道筋についての仮説を提起したりすること。あるいは時に生じる要求相互の矛盾、対立などを丹念に解きほぐしたりすることも必要でしょう。そして、理念と政策とを緊張関係を保ちながら突き合わせる作業も不可欠です。

 それとともに、社会的不公正に対してはっきりと「NO!」の意志表示をする「抗議の文化」を豊かにすることも求められます。2003年に米ブッシュ政権が強行したイラク侵略戦争に反対して、全世界で1000万人を超える人々が街頭に出て「NO!」の声を挙げました。日本でも多くの若者が反戦デモに参加し、多様な表現で戦争反対を訴えました。こうした動きを強め、日本の「右にならえ」式の政治文化を根本的に変えていくことが必要です。「抗議の文化」とは、人権を建前でなく身の丈から獲得していく営みが当たり前に行われる社会に息づくものです。

 さらには、私たちが望む「自治・連帯・エコロジー・非武装」を原理とする社会の「あるべき姿」を描きながら、現実をそれに接近させていくことも必要です。遠い彼岸に理想を設定するのではなく、望む社会のありようを具体的に形にしていくこと。作りだされた対抗社会は、現実の虚飾をはぎとって見せる鏡の役割をも果たすでしょう。

  私たちは既成の政党・政治グループの多くがそうであるように、「我らこそ全体性を持つ」と驕り、上から「指導」するのではなく、自らの部分性を自覚しつつラディカルかつトータルな社会変革を実現するための“触媒”たり得たいと考えています。そして、変革は政治を監視し発言・行動していく運動(運動圏)と議会・制度の領域における活動(制度圏)とが相互に補い合う形でなされるべきと考えます。